BLOG HAMON

2023.02.01

邪馬台国は、なんと朝倉にあった‥‥

平塚川添遺跡を歩く

昨年(令和4年)の年末、平塚川添遺跡を散策した。小春日和のおだやかな日差しの中、復元された竪穴式住居群や高床式倉庫の合間をぬって歩いた。遺跡の周囲には5重6重の濠が囲んでいる。平塚工業団地の中にあっても、時折、強く吹く風の音以外はまったく聞こえない。静かだった。木立から小鳥のさえずりが聞こえる。じっと耳をそばだてていると、簡素な衣服をまとった人たちが営む声が聞こえてきそうだ。弥生後期、ここに暮らした人々が確実にいたのだ。古代の息吹を感じたひとときだった。

「ここに邪馬台国があったらしいよ」
案内してくれたK女史が言った。 古代史研究に専念する安本美典氏が唱える“邪馬台国朝倉説”か、話には聞いたことはあるがーー。
邪馬台国は果たして日本のどこにあったのか。北部九州説、畿内説、纏向説など様々な説が飛び交っているが、ピンポイントに、ここ朝倉市にあったと主張している。
帰阪してから、さっそく安本氏の最新刊『邪馬台国は福岡県朝倉市にあった!』(勉誠出版)を取り寄せ読んでみた。

平塚川添遺跡を歩く

安本氏は、仮説に仮説を積み重ねる根拠なき信念を諫めながら、公理と論理を突き詰めて朝倉説を堅牢に構築していく。

邪馬台国は北部九州、朝倉にあり、女王卑弥呼は天照大神だとする説である。
鏡、鉄の鏃(やじり)の出土数が奈良県に比べ圧倒的に多いこと。鉄の武器の出土数は、福岡県朝倉市、岡山県倉敷市、奈良県桜井市で比べ、朝倉市が圧倒的に多いこと。
また、朝倉市の地名がそっくりそのまま大和朝廷付近の地名と一致している。なぜ同じ地名が朝倉にあるのか、記紀による神武東征によって朝倉から奈良へ引き継がれたのか、大いに興味をそそられた。

京都大学教授、岡村秀典氏の『鏡が語る古代史』に対しての論理的に容赦無く批判を加える姿勢はスリリングであり小気味良かった。
また、昨年末訪れた平塚川添遺跡が、吉野ヶ里遺跡に匹敵する日本最大級の大型集落趾であり、ここで出土した鏡3枚はいずれも、まさに邪馬台国時代のものだったことが興味深かった。
邪馬台国論争は、百家争鳴であり、研究家の数だけ“説”があるようにも思えるが、私は関西の人間ではあるが、北部九州にあったのではないかと思っている。今回、安本氏の本を読んで“朝倉説”が十分にあり得るのではないかと思った。
決定的証拠が出ない限り、わからないと言ってしまえば元も子もないが、ああでもない、こうでもないと推理を働かせながら古代ロマンに浸っていられる楽しみが続く。

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