2024.04.24
時のHAMON「朝倉はかつて日本の首都だった?斉明天皇の橘広庭宮はどこに…」でも取り上げた通り、極東アジアの動乱危機に際し朝倉に朝廷が遷されたのが661年5月9日。斉明天皇が崩御するまでのわずか2カ月半という短い期間ではあったが、事実上の遷都に近いものであったことが「日本書紀」に記されている。大化の改新など日本の礎が次々に生まれた飛鳥時代、朝倉の地で最期を迎えた斉明天皇の波乱万丈の人生をご紹介しよう。
34代舒明天皇の崩御後、難航した後継者選びを収めるため即位したのが、舒明天皇の妃・皇極天皇(後の37代斉明天皇)。あくまでも後継者争いを収めるために即位したと言われていたが、当時飛鳥の人々を苦しめた大干ばつの際、皇極天皇が祈雨(雨ごい)すると雨が降ったことで「至徳まします天皇なり」と称えられ、民の心を掴んだと伝えられる。
ところが、この後継者争いに端を発し、皇極天皇の子・中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を倒した「乙巳の変」が勃発。皇極天皇は弟の軽皇子(36代孝徳天皇)に譲位し、孝徳天皇を支えることとなった。
難波宮に遷都して大化の改新などさまざまな事業を進めた孝徳天皇だが、654年に崩御。空位を避けるため先例のない重祚(一度退いた天皇が再び即位すること)で斉明天皇に。重祚という前例のない方法で即位した斉明天皇。これは孝徳天皇崩御後の空位を避けるためとされており、斉明天皇がいかに国家安泰の使命感を持っていたかがうかがえる。
斉明天皇は即位すると、遣唐使の派遣などの外交をはじめ、蝦夷の征討や大規模な土木工事や建設をすすめるなど、その豪腕を振るった。さらに唐と新羅の連合軍に滅ぼされた百済の救援要請に応えて自ら赴き造営したのが、ここ朝倉にある朝倉橘広庭宮だった。
661年5月9日に造営された朝倉橘広庭宮だが、実はその正確な位置はまだ明らかになっていない。朝倉に朝廷を遷したわずか2カ月半後の7月24日、斉明天皇はその波乱万丈の生涯を終えたが、朝倉市須川にある「橘広庭宮ノ蹟」の石碑をはじめ、朝倉には斉明天皇とその息子である中大兄皇子が存在したであろう足跡が点在している。
・恵蘇八幡宮本殿裏の円墳(御陵山 恵蘇八幡宮1・2号墳)
日本書紀によると、斉明天皇が崩御した7日後、皇太子である中大兄皇子がその御遺骸を橘広庭宮からここに移して一時的に葬ったと記されている。
・木の丸殿(黒木の御所)
中大兄皇子の「朝倉や 木の丸殿に我居れば 名乗りをしつつ 行くは誰が子ぞ(新古今和歌集)」に登場する、母の喪に服すための忌み殿。木皮のついたままの丸木の柱を立ててつくられたと伝わる。
・水神社の月見石
恵蘇八幡宮の向かいにある山田堰のかたわらにある水神社境内にある石。筑後川のほとりで名月を鑑賞し、亡き母をしのんだという伝承がある。
・恵蘇八幡宮境内の漏刻
斉明天皇の皇子・中大兄皇子が天智天皇として即位後、つくったとされる水時計。中国で使われていたものを模してつくったと考えられている。漏刻ができた6月10日は「時の記念日」に制定されている。
誰もが知る大化の改新など、日本の国の礎が形成された時代に大活躍した斉明天皇。自ら天皇として、また天皇の妃・姉として、そしてその後即位する中大兄皇子(天智天皇)の母として、日本という国をつくりあげた立役者のひとりと言える。まだ正確な場所が定まっていない朝倉橘広庭宮だが、世界最古の国・日本の礎をつくったヒロイン・ヒーローたちの足跡を訪ねてみるのはいかがだろうか。
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