2024.04.17
時は18世紀、木の上で方々の土地を見渡している男がいました。いつも木に登り「猿どん」と呼ばれるその男の名は古賀十作義重、「堀川の恩人・古賀百工」として知られています。農業は多くの人々を幸せにするという信念を胸に、朝倉の農業の発展を夢見てかんがい工事に命をかけた古賀百工の人生とは。
古賀百工は、筑後川からの水を引く人工の水路・堀川ができて56年目の1718年、下大庭村の庄屋に生まれました。現在朝倉は美しい水が潤すのどかな穀倉地帯ですが、筑後川の豊富な水を引くための堀川用水ができた後も干ばつの被害を受ける地域が多く、改良改造が幾度となく加えられていました。
百工の父・重厚も庄屋として工事に参加し、時には幼い百工を現場に連れて行くこともありました。工事を眺めるのが大好きだった百工は、現場の様子を見ながら木切れや小石を積んで遊んでいたそうです。
その後、水田がどんどん開発されていくのですが、水田が増えるということは必要な水の量も増えるというもの。当時の堀川用水ではかんがい能力が十分ではなくなり、まだ堀川が通っていない長渕や余名持、中村は常に干ばつに悩まされることになったのです。
筑後川から堀川に引く水の量を多くするためにはどうすれば良いのか、百工は考えました。そして「堀川に分岐をつくり新堀川をつくれば、まだ堀川が通っていない地域にも水を届けられる」と思いついたのです。冒頭の「猿どん」という呼び名は、百工が拡張する新堀川の位置を定めるためにいつも木に登って方向を見定め、測量していたからでした。
夜は高張提灯を使い、高低差を調べる時は水を張ったタライを使い…さまざまな知恵と工夫、そして村人のに協力してもらいながら、百工は新堀川の計画書を藩庁に提出。百工の計画書があまりに綿密だったため、工事は福岡藩に認められ、5年後に新堀川は完成しました。この工事により堀川を水源とする水田面積は、できた当時の150ヘクタールから370ヘクタールに広がったのです。
百工が命を尽くしたのはこの工事だけではありません。百工は、新堀川で水不足に悩む地域を大幅に減らしたものの、根本的に解決するには筑後川から取り入れる水の量を安定させなければいけないと考えました。
工事に反対する農民がいれば全力で説得にあたり、当時は筑後川の対岸まで伸びていなかった山田堰を、川幅いっぱいに拡げる難工事を73歳という高齢でやり遂げたのです。完全な山田堰が完成したのは1790年。堀川が潤す農地面積は一気に487ヘクタールに広がりました。
百工がこの世を去ったのは、完成から8年後の1798年のことでした。古くから日本人は自然とともに生きてきました。特に百工がその発展を夢見た農業に携わる人たちにとって自然との関係は切っても切り離すことはできません。「水」という自然の恵を人々の幸せに実らせるために命を尽くした百工。その想いは200年以上経った今でも水面のきらめきとともに、朝倉に息づいているのです。
【参考】農林水産省「土地改良偉人伝〜水土里を拓いた人びと〜」
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