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2024.08.09

【あさくら地名ものがたり】古から今へ、旧街道がむすぶ比良松

比良松郵便局

地名が語る伝説・いにしえの物語

日本各地の地名には、さまざまな由来がある。なぜその地域がそう呼ばれるようになったのか探ると、コミュニティの中心となっていた神社の由緒にたどり着いたり、歴史や産業、文化にルーツが垣間見えることも。そんな地名にまつわる伝説・伝承や民話を取り上げるのが【あさくら地名ものがたり】。今回は、旧日田街道が通る比良松エリアを紐解いてみよう。

旧街道のまちなみを歩く

旧日田街道は律令時代に筑前と豊後をむすんだ古代官道とほぼ同じルートをたどるとされる道。400m四方にも満たないエリアを通る短い道だが、歴史的情緒あふれる街道だ。律令時代、比良松は太宰府と豊後をむすぶ古代官道の要所であったと言われるが、それを裏付けるように、比良松では奈良時代の官衙関連遺跡・井出野遺跡も発見されている。

現在の旧日田街道に並ぶのは、1855(安政2)年の大火後に再建された建物がほとんど。江戸時代末期の風情を残す民家や醤油・酒蔵が並ぶ道を歩くと、初めて訪れる方もなぜか懐かしい気持ちになると言う。和風建築が並ぶ中、1874(明治7)年に酒造場から改装され、昭和10年ごろに現在の姿になった洋館風の建物・旧比良松郵便局も。近代建築ファンも注目する建物が日常の景色に隠れている。これも歴史とともにある比良松のおもしろさのひとつと言えよう。

ゆるやかな坂道を上ると、比良松のシンボルとして親しまれる巨木が現れる。これは、現在国道沿いへ移転したかつての歯科医院の庭にあるモミの木で、住んでいる方に話を聞くと「私が子どものころでも幹周りが1mあったような…樹齢は300年以上とも聞いたことがあります」とのこと。旧朝倉町では一番高い木と言われたこともあり、すべて確証があるわけではないが、すべて人から人へ時を超えて伝え継がれてきた話。気の遠くなるような長い間、比良松と朝倉を空から見守っていたのは確かだ。

そんな比良松、かつては「平松」と表記されていた。これは、戦国時代の1554年に植えられた「枝が四方に広がる松」が由来。そして、1877(明治10)年の火災が元で枯れてしまうまでこの平松があった場所というのが、現存する現役の公民館で最古とも言われる舒翠館(比良松公民館)である。

舒翠館が建てられたのは1885(明治18)年。昭和61年版「朝倉町史」(朝倉町教育委員会)によると、現朝倉市エリアでは初めての公会堂として地元の奉仕により建設された、とある。古くは奈良時代から交通の要所であり、さらには官庁街であった比良松の一帯である。たくさんの人々が、さまざまな用途で集ったことは想像に難くない。少なくとも現在40代の筆者が子どものころは、子ども会や自治会などの集まりごとはすべてこの舒翠館で開かれていたと記憶している。地域のコミュニティスペースとして長い間親しまれてきた。

日常に潜む歴史のロマン

先に触れた井出野遺跡が比良松で発見されたのは、市営住宅建設時のことである。いつか私が踏んだ道の下に、毎日走る土手の下に、昔誰かが営んだ暮らしの足跡が眠っているのかもしれない。歴史的情緒が当たり前の景色として日常にあふれる比良松の旧街道を見ていると、日々の暮らしにもロマンを感じずにはいられなくなりそうだ。

【参考】
・「朝倉町史」昭和61年度(朝倉町教育委員会)
・旧日田街道比良松まちづくり世話人会ホームページ「旧日田街道比良松-今と昔
・朝倉市ホームページ「井出野遺跡

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