2024.08.23
生活インフラとしてまちに欠かせない建築・構造物。地域に溶け込みながら暮らしの中に息づいていたり、コミュニティの象徴として人が集う場になったり。まちの建造物が親しまれながら機能している様子を見ていると、それらの建築物や構造物が、まるで命を持った生き物のように感じられる。「工場萌え」「推しダム」など細分化された建造物マニアが増えた昨今、朝倉のまちにかくれた建造物を訪ね、そぞろ歩くのが【あさくら建造物さんぽ】。
今回はマニアも多いと言われる橋梁をピックアップ。筑後川をはじめ、たくさんの川がめぐる朝倉には、大小さまざまな橋梁が多く架かる。生活に欠かせない朝倉エリアの橋梁の中から、5本の名橋梁を訪ねてみよう。
今回ご紹介する橋梁の中では最も古い石造秋月の眼鏡橋は秋月の野鳥川に架かる橋。かつて「長崎橋」と呼ばれたのは、秋月藩が長崎の警備を担っていたことがきっかけで、秋月藩の家老・宮崎織部と郡奉行・江崎半右衛門が長崎から招いた石工によって建設したから。長さ17.9m、幅4.6mの石造単アーチ橋は、そのスマートなデザインのせいか、竣工間際に一度崩れ落ちたという記録も。国内では珍しく花崗岩でできている。
桁橋(けたばし)とは、構造体に渡す桁で路面を支える最もシンプルな構造の橋梁形式。仁鳥の石造桁橋はもともと山見川に1914(大正3)年に架けられたが、川の河川改修に伴い2017(平成29)年に現在の場所に移設された。長さ9.2m、幅1.6mの小さな石橋だが、100年以上の時を経た今も残る橋としては貴重な構造。2009(平成21)年に朝倉市の文化財に指定されている。
日向石粟島神社の鳥居近くにある仁鳥の石造桁橋。積み上げられた石を見ると、100年以上前の人の手で造られたことがよくわかる。
(2024年8月撮影)
ここからは九州で一番大きな川・筑後川に架かる橋のうち、朝倉にある3本を挙げる。最初は両筑橋。1955(昭和30)年10月完成、長さ382.4m、幅7m。甘木と田主丸の間を流れる筑後川を渡す橋。近くにかんがい用水として設けられた恵利堰・床島堰がある。
撮影当日(2024年8月下旬)は、工事の最中で、さまざまな重機が行き交う様子が見られた。鋼ゲルバー鈑桁形式の両筑橋は、下から構造を見上げるのもおもしろい。
(2024年8月撮影)
筑後川に架かる朝倉の橋のうち、最も長いのが朝羽大橋。長さ441.8m、幅6.7mで朝倉と吉井をつなぐ。完成は1966(昭和41)年2月。右岸下流にある田中の浜グラウンドは、花火大会や祭り、学校遠足などでも使われる市民の集いの場。すぐ近くには水神社という小さなお宮があり、筑後川の安全と行き交う人々、美しい水の景色を見守っている。
朝羽大橋の名が記される親柱と、「橋の裏側萌え」と呼ばれるほどマニアに人気の橋の裏側。川岸に歩行者用の道路が設けられているため、下からのアングルを狙いやすのも筑後川に架かる橋の特徴だ。
(2024年8月撮影)
両筑橋より約半年前の1955(昭和30)年4月に完成した恵蘇宿橋は、長さ284.3m、幅6.7mの橋。朝倉と吉井の間を流れる筑後川を渡る。採用された鋼連続ゲルバートラス形式は、19世紀にドイツのハインリッヒ・ゲルバーによって創案された構造で、両端の重りで吊って支える構造。橋の朝倉側は、三連水車に水を送る水門がある山田堰のほか、恵蘇宿八幡宮など斉明天皇や中大兄皇子にまつわる数々の歴史が彩る場所。
橋がなかった昔を想像してみよう。川を渡るのが困難であればあるほど、川を隔てた向こう側との文化は異なるかもしれないし、こちらとは違った暮らしの知恵があるかもしれない。また、川の向こう岸に何かを運んだり、何かを伝えるのに不便があったかもしれない。橋は、文字通り人と人、文化と文化のかけ橋として、まちとまちをつなぐ。朝のまばゆい光や夕暮れの美しい情景は、今日も当たり前の顔をして私たちの心に鮮烈な感動をつないでくれている。
福岡県教育庁教育総務部文化財保護課「福岡県文化財データベース」
朝倉市ホームページ「建造物」
撮影協力:H&M.Otake
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