2025.02.14
「種痘必順弁」京都大学附属図書館所蔵
2月14日は何の日でしょう。今では「バレンタインデー」と答える方が多いかもしれません。実は我が国においてとても重要な日でもあるんです。1790年2月14日、ここ朝倉で我が国初の予防接種が行われました。今回は人類初のワクチンである種痘を行い、天然痘の根絶に貢献した秋月藩医・緒方春朔の功績をご紹介します。
「痘瘡面上図」,写.国立国会図書館デジタルコレクション
天然痘(疱瘡)とは、6世紀に日本に伝わったとされる感染症で、「日本書紀」にも記述があります。伝染力が非常に強く死亡率が高い上、万が一治癒しても顔に跡が残るとあって大変恐れられていました。
我が国でたびたび流行したのは江戸時代で、当時の主な死因のひとつに数えられるほど。多くの死者、特に乳幼児が犠牲になりました。それだけ人々を恐れ悩ませた天然痘ですから、もちろん江戸時代の医者の中にも研究をする人がたくさんいましたが、それでも予防する方法を見つけることができませんでした。
1748年、久留米で生まれた春朔は医者の道に入り長崎へ、「解体新書」の序文でも広く知られる吉雄耕牛に医学を学びます。たくさんの医学書の中から中国やインドの医学書にある種痘(天然痘のワクチン)に着目、日々研究に没頭。
父祖伝来の秋月に移ってからは秋月藩主・黒田長舒の命を受け藩医に。地域医療に尽力する中でも研究をすすめ、さまざまな種痘の中から、「鼻乾苗法」という予防接種法を発見したのです。
秋月眼鏡橋の完成は黒田長舒の業績のひとつ
【緒方春朔が発見した種痘(予防接種法)】
ついに天然痘の予防法のひとつを発見した春朔ですが、理論上は可能でも医学には臨床試験が必要です。人間の体で実験をする怖さはもちろんですが、とりわけ当時恐れられていた天然痘。失敗すれば子どもを死においやってしまう可能性もあるのです。簡単にお願いすることもできません。
子どものなかった春朔に協力を申し出たのが、研究をサポートしてきた上秋月の大庄屋・天野甚左衛門でした。甚左衛門は、実験が成功すれば多くの子どもたちの命が助かること、その実験に自信を持つ春朔の熱心な姿を見てきたことを話し、妻を説得。「我が子が死んでしまうことになったら、私たちも死にましょう」と妻も覚悟を決めました。
緒方春朔が著した「種痘必順弁」京都大学附属図書館所蔵
こうして1790年2月14日、人類初のワクチンである種痘が行われました。天野甚左衛門の子ども二人のうち男児は種痘を受けた1週間後に熱を出し鼻が詰まって風邪のような症状に、その2日後には女児も同じような症状が出たため、種痘によるものであると診断。それから3日後、二人の顔や体に赤い発疹ができましたが、10日前後で治り、元の状態に戻ったのです。つまり、春朔による種痘法は成功したのです。
これは、今から235年前のこと。世界的に天然痘根絶に貢献したとされるイギリス人医師のエドワード・ジェンナーによる牛痘種痘法成功の6年前のできごとでした。
朝倉医師会病院にある、緒方春朔種痘成功200年記念のレリーフ
こうして人類初のワクチンである種痘を成功させた春朔。これを広めて恐ろしい天然痘を予防しようと考えたのが素晴らしいところ。というのも当時、医術は人に教えるなど当たり前ではなかった時代です。自分だけの秘伝とせず、「予防は治療にまさる」と説いてその概念を庶民に広めていきました。春朔は日本の医学史上初の種痘書である「種痘必順辨」を著し、天然痘にかからないようにするという予防医学の重要性を普及させたのです。
その後、イギリス人医師・ジェンナーによる牛痘法が日本にも伝わりましたが、春朔が説いた種痘の概念があったからこそ、予防接種が急速に全国に広がったと言えるでしょう。1980年5月に世界保健機関(WHO)が世界根絶宣言を行いました。
春朔の種痘は、我が国における予防摂取の歴史的なはじめの一歩。記憶に新しい新型コロナウイルスはもちろん、インフルエンザやはしかなど現在はさまざまな予防接種がありますが、春朔の尽力がなければ、今日の私たちの暮らしや健康な生活もなかったかもしれませんね。
【参考サイト】
・一般社団法人 朝倉医師会「緒方春朔について」
・朝倉市ホームページ「ふるさと人物誌1 我が国種痘の祖 緒方春朔」
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